top of page

イニシエーションスピーチ

更新日:2022年5月3日

  桑原治夫新会員 



令和4年2月15日に新会員の桑原治夫会員にイニシエーションスピーチを披露していただきました。桑原会員は本田会長の紹介で昨年12月に入会いただいてから半年にも満たない間に2名もの新会員を紹介し大和クラブに入会させている「ウルトラ新会員」です。桑原会員のお仕事やご自身の紹介をしていただきました。

 私は、昭和46年に「日産サニー湘南」に就職いたしました。 学生時代、トヨタの営業マンが毎日のように車を売り込みに来ました。免許がない私に対し、「将来必要になるから、免許がなくても買った方がいい」と毎日営業に来ていました。笑 このような体験もあり、実は営業が大嫌いでしたが、「モノが売れるということはすごいことだな」と感じ、「日産サニー湘南」に面接に行きました。そこで「2年後にやりたいことがあるので、それまで車の営業の勉強をさせてください」とお願いし、就職しました。同期が50人の内、1年後に残ったのは5人、2年後に残ったのは3人という、厳しい時代でした。初任給は大卒で5万~7万、私は営業でしたので、初任給は3万でした。車が売れないとメシが食えないのです。10台売って手取りが10万円です。だから必死になって売りました。おかげさまで、営業をベースに今日までやってきました。  就職して2年後にやりたかったことですが、小学校の頃から私は体操をやっていました。競技スポーツより、健康のためのスポーツ教室をやりたいと考え、そのような会社を、昭和51年、27歳の時に飯田橋で立ち上げました。伊勢原に25mの温水プールを作ったりもしましたが、仲間との共同事業というのはなかなかうまくいかないものです。  38歳の時に父の会社に入りました。 父は貿易をずっとやっていまして、パソコンを輸入していました。記憶媒体がまだカセットテープという時代です。貿易にかわる事業を模索しながら、コンピュータのソフトウェアの事業を始め、海外輸出向けの仕事ばかりやっていました。ところが円高不況になり、当時60名の従業員がいましたが、不況で残ったのは5~6名でした。  次に派遣型に切り替えようとなり、大型の汎用機を扱い、 国税庁の源泉徴収システムや、生命保険や損害保険の大きなシステムに携わりました。従業員が40名程まで復活した頃、バブルがはじけ、3人の社員が残りました。この頃までに父は2回程脳梗塞で倒れていたこともあり、このタイミングで残っていた3人の社員を引き取り、平成4年に現在の「日本エートス株式会社」を設立いたしました。今年の11月12日で創立30年になります。 現在はシステムの運用管理とシステム構築を同時に行っております。私自身はコンピュータの世界で生きてきたというよりは 営業で食べてきた人間ですので、ひたすら人脈を広げてネットワークを作り、仕事を取ってきました。不況になると大手の仕事は切られてしまいます。それで我々のような中小の業者を横に仕事を回しあえるネットワークを作ろうと、平成13年に「かながわIT推進会」を作りました。ITの世界に少しは恩返しができたかなと思っています。 そうはいっても私は技術者ではないので、IT事業だけでは不安です。それで3年前より建設をやっております。できれば3~4種の多角化をしたいと考えています。  実は私には親父が2人おります。今までお話した父は、育ての親父です。生みの親である親父の方は、私が5歳の時に離婚をし、最後に会ったのは7歳の時です。私は9歳で養子に出て、桑原姓になりました。その後42年ぶりに実の親に会ったのですが、 帯谷宗英(おびやそうえい)という立派な陶芸家になっていました。曾祖父は帯屋治平(おびやじへい)という、博多の織物商人で、屋号が「帯屋」でした。元々の本名は川上という名前でしたが、祖父が川上姓から、屋号の「帯屋」の「屋」を「谷」に変え、「帯谷」という名前に変えたと聞いています。  このような血を引いているせいか、日本文化がすごく好きです。陶芸の他、タバコはキセルに凝ってみたり、お茶もたしなんでいます。ちなみに本田会長は初めてお会いした当時タバコをやめていらっしゃいましたが、 このキセルをきっかけとしてタバコをまた吸われるようになりました。笑 (この後、お茶に関する様々な作法と意味合いを実演を交えてご教示いただきました) 以上、とりとめのない話になりましたが、イニシエーションスピーチとさせていただきます。ご清聴いただき、ありがとうございました。




閲覧数:10回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page